三井倉庫グループの沿革
- 明治42年10月
- 明治42年10月11日「東神倉庫株式会社」として設立、本店を東京に、支店を東京、神戸、門司に設置
<歴史コラム【神戸編】~外国に向けて開かれた神戸小野浜で総合物流サービス業への第一歩~>
<歴史コラム【東京編】~世界一の大都市、江戸の倉庫の伝統を受け継いで誕生~>
- 大正 2年
- 横浜派出開業(大正12年横浜支店となる)
<歴史コラム【横浜編】~関東大震災を乗り越えて支店昇格~>
- 大正7年1月
- 大阪倉庫会社を買収、大阪支店として営業を開始
<歴史コラム【大阪編】~江戸時代からの物流の中心、大阪に進出~>
- 大正11年9月
- 名古屋出張所設置(昭和12年名古屋支店となる)
<歴史コラム【名古屋編】~発展する名古屋に、三井関係各社の力を集結して出張所設置~>
- 昭和17年3月
- 社名を「三井倉庫株式会社」と改称
<歴史コラム【戦中編】~社名を「三井倉庫株式会社」と改称 ~>
- 昭和25年4月
- 東京証券取引所に株式を上場
<歴史コラム【上場編】~ 東京証券取引所に株式を上場 ~>
- 昭和41年8月
- 自動車運送取扱業を開始
<歴史コラム【戦後編】~自動車運送取扱業開始~>
- 昭和43年3月
- 海上コンテナの取扱いと国内におけるコンテナ・ターミナルの運営を開始
- 昭和44年4月
- 貨物自動車運送業の免許取得、コンテナのトラック輸送開始
- 昭和52年12月
- 本店に国際部、プラント部設置、国際運送業務を本格展開
<歴史コラム【国際化編】~組織変革によって時代の波を乗り越える~>
- 昭和57年6月
- IATA航空貨物代理店資格取得、航空貨物取扱業務を本格化
<歴史コラム【航空貨物編】~陸と海に続き空飛ぶ新たな貨物輸送の時代に対応~>
- 昭和59年11月
- 本店所在地を「東京都中央区日本橋箱崎町」から「東京都中央区日本橋茅場町1丁目」に移転
- 昭和61年11月
- ビッグバッグ業務(トランクルーム保管、引越等の非商品対象業務)を開始
<歴史コラム【トランクルーム編】~ビッグバッグ業務(トランクルーム保管、引越等の非商品対象業務)を開始~>
- 昭和63年2月
- 三井倉庫インターナショナルをシンガポールに設立
- 平成4年1月
- 本支店制を廃止し、本支社制(本社各部及び関東、中部、関西、九州各支社)とする
- 平成13年4月
- 九州支社を「三井倉庫九州株式会社」として分社
- 平成14年6月
- 本店所在地を「東京都中央区日本橋茅場町1丁目」から「東京都港区海岸3丁目」に移転
- 平成15年3月
- 航空に係る第二種利用運送事業(航空貨物単独混載)の許可を取得
- 平成16年4月
- 執行役員制度を導入
- 平成18年4月
- BPO事業推進部を設置、BPO事業を本格的に開始
- 平成20年4月
- 3PL推進部を設置、3PL事業を本格的に開始
- 平成21年10月
- 創立100周年を迎える
<歴史コラム【創立100周年を迎える 】~グローバル総合物流企業として、新たな飛躍の100年へ~>
- 平成22年1月
- 関西支社の本部を大阪に移転
- 平成22年4月
- 本支社制を廃止し部門制とする
- 平成23年3月
- ジェーティービーエアカーゴの株式を取得し、三井倉庫エアカーゴに社名変更
航空貨物をはじめとする国際貨物輸送事業を強化
- 平成23年9月
- 本店所在地を「東京都港区海岸3丁目」から「東京都港区西新橋3丁目」に移転
- 平成24年4月
- 三洋電機ロジスティクスを買収し(三井倉庫ロジスティクスに社名変更)、3PL事業を強化
- 平成24年7月
- TASエクスプレスの株式を取得し、三井倉庫エアカーゴと統合
三井倉庫エクスプレスとして発足
- 平成26年10月
- 三井倉庫ホールディングス(旧三井倉庫株式会社より社名変更)を持株会社とする持株会社制に移行
三井倉庫、三井倉庫ビジネストラストを新設分割により設立
- 平成27年4月
- ソニーサプライチェーンソリューション株式会社のロジスティクス事業を三井倉庫ホールディングス(株)とソニー(株)の合弁会社に移管。社名を三井倉庫サプライチェーンソリューション株式会社とする。
以下3社を子会社化
タイ:MS Supply Chain Solutions (Thailand) Ltd.
マレーシア:MS Supply Chain Solutions (Malaysia) Sdn.Bhd.
日本:ロジスティックスオペレーションサービス株式会社
- 平成27年11月
- 三井倉庫トランスポートを設立
- 平成27年12月
- 三井倉庫トランスポートが大阪に本社を置く丸協運輸(株)及び愛媛に本社を置く丸協運輸(株)並びにその他関係する会社4社の全株式を取得し、連結子会社化
- 平成29年4月
- 三井倉庫ビジネストラスト(株)を吸収合併により三井倉庫(株)へ統合
外国に向けて開かれた神戸小野浜で総合物流サービス業への第一歩
歴史コラム 神戸編
大輪田泊から綿花ブームの舞台へ。外国に開かれた貿易拠点、神戸
神戸の観光名所として有名な異人館や南京町は、神戸が早くから外国との交流を行ってきたことの名残で、欧米人が居住していた西洋風住宅が異人館、横浜や長崎と並ぶ日本三大中国人街の一つが南京町と呼ばれています。古くは、兵庫港は大輪田泊とも呼ばれ、平清盛による大修築により、日宋貿易の拠点として栄えた港でした。兵庫港は1858(安政5)年の日米修好通商条約に基づいて、横浜や長崎とともに開港される約束となっており、実際にはその10年後、1868(慶應3)年に開港されました。北は西国街道、南が海、東西をそれぞれ生田川、鯉川、に囲まれており、生田川の河口は小野浜と呼ばれる土地が三井倉庫が総合物流サービスに踏み出した舞台になります。
その後、現在の東洋紡の基礎となった大阪紡績が1882年に創業されたことをきっかけとして、日清戦争後の1895(明治27)年から「第二次企業勃興期」と呼ばれる紡績会社や精糖会社の設立ブームが発生。大阪中心に多数の紡績会社が集中し、綿織物産業の機械化により生産量が増大し、輸入綿花や輸出向けの綿糸・綿布の倉庫の需要も増大しました。
恐慌を乗り越え、荷捌き業務へ進出
この需要に対応するため、1900(明治33)年7月に三井銀行神戸支店小野浜倉庫(18,410㎡)が開業されました。企業の設立ブームの結果、過剰生産よる製品価格の低下や企業の利益率低下が引き起こされ、同年、日本経済は恐慌の波に襲われたものの、不況時には金融緊縮のため担保金融を求めて倉庫利用が増加しました。
さらに、開港以降に激増する出入船舶に対応するため、1907(明治40)年9月から大規模な第1期整備拡張工事が行われ、三井倉庫も1915(大正4) 年から神戸小野浜の埋め立てに取り組むことになります。同年には買収を前提として神戸桟橋会社と共同経営を開始し、荷捌きと船積み業務へと進出しました。
1917(大正6)年には日本棉花同業会と東京倉庫(三菱倉庫の前身)、神戸桟橋会社との間の棉花取扱契約に三井倉庫(東神倉庫)も参加することになり、 神戸に輸入する棉花の4割(大正時代のピーク時は約18万トンにのぼる) の荷捌きを神戸桟橋会社とともに担当することになりました。日本郵船や東洋汽船、大阪商船、PO汽船、MM汽船などのステベ業務(Stevedore、船
内荷役)も神戸桟橋会社から引き継ぎ、現在の港湾運送事業の発展の基礎となったのです。東神倉庫の「神」の字には、新時代を切り開く舞台となった、神戸の 拠点の存在が反映されています。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.4.24
世界一の大都市、江戸の倉庫の伝統を受け継いで誕生
歴史コラム 東京編
世界最大の大都市、江戸に集まる物資を保管する倉庫
江戸時代の物流といえば「天下の台所」と呼ばれた大阪が有名ですが、江戸(現在の東京)は幕府のお膝元であり、大阪とともに日本の物流の中心となっていました。1800年頃の人口推計で比較すると、江戸の人口は100万人と、北京の90万人、ロンドンの86万人、パリ54万人、大阪40万人を上回り、当時の江戸は世界最大の都市だったのです。さらに日本橋を起点として、江戸から東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道という5街道が整備され、江戸を中心とする人と物の動きが活発に行われていました。
江戸に集まる物資の中で、最も重要なものの一つは米でした。日本全国で徴収された年貢米の大部分は、江戸と大阪に送り出され、これらの御廻米(おかいまい)を収容する領主の倉庫施設は蔵屋敷(くらやしき)と呼ばれていました。一方で江戸時代中期になると、江戸や大坂の水運の便の良い河岸沿いには、問屋商人が所有する民間の倉庫である問屋敷が棟を連ね、倉庫地帯が形成されました。現在の三井住友銀行の源流の一つである三井両替店も、1740(元文5)年に、日本橋箱崎町一丁目の18棟の河岸蔵などが立ち並ぶ広大な倉庫群を買い入れています。
三井銀行倉庫部から独立した、三井倉庫(東神倉庫)
三井両替店は、1876(明治9)年に日本初の私立銀行である三井銀行に改組されました。その後、1886(明治19)年から1889(明治22)年にかけて「第一次企業勃興期」と呼ばれる、鉄道会社や紡績会社の設立ブームによる好景気が訪れました。しかし、好景気の反動として、1890(明治23)年には日本初の資本主義恐慌が訪れ、不良債権処理の問題が発生し、担保流れとして東京深川の仲川町と日本橋箱崎町三丁目の倉庫が三井銀行の所有になりました。箱崎町は江戸時代からの倉庫街であり、箱崎町三丁目の倉庫は北海道庁の前身である開拓史の産物会社のものでした。今では、創業の地である箱崎町三丁目の倉庫の跡地には、現在は三井倉庫箱崎ビルがそびえ、日本IBM箱崎事業所などが入居するインテリジェント・ビルになっています。
これらの倉庫を出発点として三井銀行倉庫部が設立され、三井倉庫はそこから独立して、1909(明治42)年10月11日に東神倉庫株式会社として設立されました。東神倉庫と名付けられたのは、主な営業所が東京と神戸にあったことに由来します。三井倉庫(東神倉庫)の設立時の東京における最大の拠点であった箱崎町三丁目の倉庫は、江戸時代以来の伝統を持つ倉庫街にあり、三井倉庫もその伝統を引き継いで設立されました。東神倉庫の「東」の字には、江戸時代からの伝統を受け継ぎながら発展する、東京の拠点の存在が反映されているのでした
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.4.24
関東大震災を乗り越えて支店昇格
歴史コラム 横浜編
毎年9月1日は「防災の日」です。1923(大正12)年9月1日に発生し、142,807名の尊い人命が失われた関東大震災を教訓に、災害の未然防止と被害軽減に役立てるため、1960(昭和35)年に防災の日は閣議決定されました。2015年現在、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から20年、2011年3月11日に発生した東日本大震災から4年、たびたび発生する大震災は人的・物的に甚大な被害を与える一方で、復旧・復興を通じて日本社会に新たな変化をもたらしてきました。
昔は寒村だった!?横浜の大発展
関東大震災で大きな被害を受けることになった横浜は、1859(安政6)年の開港前は100戸程度(人口約400人)の半農半漁の寒村でしたが、関東大震災前の1920(大正9)年には人口42万2938人の大都市に発展しました。横浜は主に欧米に対して開かれた窓口となり、1869(明治2)年には山手居留地46番で日本初のビール製造が「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」で行われ現在のキリンビールへとつながり、馬車道の「氷水屋」では日本初のアイスクリーム「ありすくりん(現在の貨幣価値で8000円)」が製造販売されるなど、欧米文化が日本に導入される拠点としての役割を横浜は果たしていました。
関東大震災を乗り越え、生糸産業の拡大とともに成長
三井倉庫(東神倉庫)が横浜に進出したのは1913(大正2)年、横浜税関構内に事務所を設け、税関第一号レンガ造瓦葺倉庫240坪を賃借して、当初は箱崎支店横浜派出として営業を開始しました。この横浜税関倉庫にも震災発生後に火の手が迫る中で、横浜派出長の西川政吉を中心に倉庫の施錠をした上で命からがら艀船に避難した結果、他の横浜税関倉庫が火災に見舞われる中で三井倉庫の借庫は類焼を免れました。横浜派出員の努力によって守った倉庫は震災後の横浜では貴重な存在であり、三井倉庫は横浜貿易復興会と連名で、震災直後の9月11日に税関倉庫を生糸専門倉庫として大蔵省から改めて借り入れることになりました。2棟3,600坪の倉庫の収容能力60,000梱に対し、1923(大正12)年末時点で52,000梱、金額にして7,000万円近くに達するなど活況を呈し、震災後の貿易の復興に大きく貢献しました。また、全国から救援物資や復興のための資材が送られてきましたが、それらを保管する倉庫のほとんどが罹災しているため、横浜では横浜税関と食糧局の了解を得て横浜新港構内に1,350坪の土地を借りて急設倉庫4棟を建設し、10月上旬には竣工しました。
こうした業務の飛躍的発展に対応するため、横浜派出を箱崎支店から分離して、震災から約2ヶ月後の11月3日には横浜支店へ昇格させました。地震とその後の火災によって横浜は一面の焼け野原となりましたが、震災からの復興の担い手として、三井倉庫の横浜の拠点は支店に昇格したのです。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.4.24
江戸時代からの物流の中心、大阪に進出
歴史コラム 大阪編
蔵屋敷が生んだ、世界初の米の先物取引所
大阪は1868(明治元)年に「大阪府」が置かれるまで「大坂」と標記され、江戸時代における日本の物流の中心でした。【東京編】でも触れたように、日本全国で徴収された年貢米の大部分は、江戸(東京)と大坂(大阪)に送り出され、これらの御廻米(おかいまい)を収容する領主の倉庫施設は蔵屋敷(くらやしき)と呼ばれました。
大阪には最大で120以上の蔵屋敷が置かれ、市場に出回る米500万石前後の4割にあたる、200万石程度の米が取引されていたと言われています。蔵屋敷の多くは淀川(現在の旧淀川)の下流、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島に集まっていました。堂島川を挟んで中之島の北側にある堂島には、蔵屋敷が発行した米の保管証明書である米切手を売買するため、1730(亨保15)年に堂島米会所が開設されました。米将軍と呼ばれた第8代将軍徳川吉宗が、「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相を通じて、世界初の公設先物取引所である堂島米会所を整備したのです。世界最大の穀物先物取引所とされるシカゴ商品先物取引所の設立が1848年ですから、その設立よりも118年前に、ほぼ同様の仕組みを採用する先物取引所が大阪に設立されていました。
米の保管から、砂糖と繊維関係の保管へ
1871(明治4)年の廃藩置県によって、各藩が所有していた蔵屋敷は明治政府の所有となり、その後、民間に払い下げられました。東京でも蔵屋敷が倉庫業の出発点となったのと同様に、大阪でも蔵屋敷が倉庫業の出発点となりました。
大阪における近代倉庫業のパイオニアとして、江戸時代最大の豪商であった鴻池家の第11代鴻池善右衛門(善次郎)が中心となり、1883(明治16)年に大阪倉庫会社が設立されました。後に東神倉庫(三井倉庫)に加わる大阪倉庫会社は、中之島三丁目の旧筑前黒田藩の蔵屋敷を買い入れて、最初の所有倉庫としています。この黒田藩蔵屋敷の長屋門は、1933(昭和8)年に旧中之島三井ビルディングが建設される際に大阪市に寄贈され、天王寺公園の大阪市立美術館南通用門として移築されており、現在もその姿を確認することができます。
大阪倉庫会社設立直後の1883年下期の業績を見ると、米の保管料収入が91.2%を占め、江戸時代の蔵屋敷と同様に米の保管が業務の中心でした。しかし、米の保管料収入は1897(明治30)年には54.2%、1900(明治33)年には42.6%と低下する一方で、1900年には繊維関係と砂糖の保管料収入がそれぞれ17.7%ずつに達しています。この背景には、1887年から1900年にかけて三島紡績、天満紡績、浪華紡績、摂津紡績、平野紡績、八幡紡績、尼崎紡績などの紡績会社が大阪周辺に設立されたことや、大阪の都島で1897年に日本精糖が設立されたことが影響しています。
大阪倉庫会社を買収、大阪支店として営業を開始
大阪倉庫会社は鴻池善右衛門が社長を務め、鴻池合名会社専務理事の原田二郎が1903(明治36)年から副社長として経営の実務を担っていました。しかし、原田二郎は鴻池家の直営事業を銀行経営に限定する家政改革(リストラクチャリング)を断行し、業績好調にもかかわらず大阪倉庫会社の売却を決定しました。大阪進出を計画していた東神倉庫(三井倉庫)は、2年近くの交渉の末、1917(大正6)12月に大阪倉庫会社を買収し、翌1918(大正7)年1月から大阪支店として営業を開始しました。
大阪倉庫会社の保管残高約3,000万円は、当時の東神倉庫の神戸支店と門司支店の保管残高合計に匹敵し、大阪倉庫会社の買収は東神倉庫の規模拡大に大きく貢献しました。さらに、当時の大阪は綿紡績業を中心とする繊維産業や製糖業の発展による飛躍の段階にあったため、大阪支店でも繊維関係や砂糖の保管はもちろん、1924(大正13)年からは棉花荷捌きも開始するなど、倉庫業務から総合的な物流業務へと踏み出しました
M&Aを通じて規模を拡大し、新業種の取り扱いノウハウを得ることや、物流のトレンドをつかんで拠点と業種に投資するという、現在の三井倉庫にもつながる社風は、この当時から脈々と受け継がれているのでした。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.5.28
発展する名古屋に、三井関係各社の力を集結して出張所設置
歴史コラム 名古屋編
御三家筆頭の尾張徳川家の城下町、名古屋経済のダイナミズム
御三家と言えば、かつては芸能人、現在では有名私立中学校などを指すことが多い言葉ですが、もともとは江戸時代に「尾張徳川家」、「紀州徳川家」、「水戸徳川家」の3家を指していました。名古屋城に本拠を置く尾張徳川家は御三家の中でも筆頭で、名古屋も江戸、大坂、京都のいわゆる三都に次ぐ大都市でした。幕府の色が濃い名古屋ですが、1868(明治元)年に明治維新を迎えた際、尾張藩は新政府側であったため※1、名古屋は明治維新後に更なる発展を迎えます。
その発展の背景にあるのは、明治維新以前からの「土着派」、明治維新以後に名古屋近郊から移住してきた「近郊派」、明治維新後に尾張藩以外から移住してきた者や士族から商人に転じた「外様派」の3派の競争です。これらが中京地域の経済のダイナミズムを生んでいると、2度もテレビドラマ化された『官僚たちの夏』などの作品で知られる城山三郎著、『中京財界史』では指摘されています。
織機の発明からトヨタの礎を築いた豊田佐吉と、三井物産
「外様派」を代表する人物の一人が、豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)などを創業し、現在のトヨタ自動車の出発点となった豊田佐吉です。豊田佐吉は1867年に遠江国山口村(現在の静岡県湖西市)で生まれ、大工として修行しながら織機の研究を始め、早くも1890(明治23)年には豊田式木製人力織機を開発し、翌1891(明治24)年には特許を取得しています。豊田佐吉はさらに織機の改良を進め、1897(明治30)年には豊田式木製動力織機を製作し、この動力織機を製造販売する豊田商店を設立しました。
豊田式動力織機によって製造された綿布は、従来の人力織機で製造された綿布に比べて寸法の誤差が極めて小さく、三井物産名古屋支店は豊田佐吉の存在に注目しました。そこで1899(明治32)年に、豊田式動力織機の10年間の一手販売権(独占販売権)を三井物産が取得し、三井物産全額出資による豊田式動力織機の販売会社である、三井の井桁マークにちなんだ井桁商会が設立されました。
名古屋港の開港と紡績業の急成長
名古屋港の開港は1907(明治40)年と、1859(安政6)年の横浜、1868年の神戸から遅れること40年。もともと熱田神宮にちなんで熱田港と呼ばれていましたが、1907年10月に名古屋港と改称され、翌11月の開港により原材料の輸入や製品の輸出がよりスムーズにおこなわれるようになったため、名古屋周辺は一段と発展しました。
棉花の需要に対応して名古屋出張所を開設
豊田佐吉の製作した織機や名古屋港の開港が結びついて、名古屋周辺では紡績業が急激に発展を遂げました。1918(大正7)年に名古屋紡績、豊田紡織、菊井紡績、1919(大正8)年に協同紡績、中華紡績、内外紡績、1921(大正10)年には日清紡績が愛知県呼続豊田町(現在の名古屋豊田市南区)に大工場を建設し、合計錘数76万錘、棉花消費量年間50万梱
(約10トン)という旺盛な需要がありました。
そこで1922(大正11)年1月に開催された三井関係会社の新年会で、東神倉庫(現在の三井倉庫ホールディングス)東京支店の清崎昌雄は、東洋棉花(トーメンを経て現在の豊田通商)東京支店長の加藤莱作から、棉花が名古屋港に大量に荷揚げされるので、東神倉庫が名古屋港への進出するように勧められました。
三井物産名古屋支店の仲介により、東神倉庫は1922年3月に3,770坪(約12,500平方メートル)の土地を賃借しました。名古屋の土着派を代表する松坂屋を経営する伊藤家らが所有していた、熱田千年新田の一部と埋立二号地との地続きの土地です。
同年6月には倉庫4棟、上屋2棟の建設に着手するとともに、日本棉花同業会と棉花取扱契約を締結しています。同年11月1日に名古屋出張所は営業を開始し、1937(昭和12)年6月には名古屋支店に昇格しています。
東神倉庫が名古屋出張所を開設したのは、豊田佐吉による織機の発明や名古屋港の開港によって名古屋周辺で紡績業が急速に発展し、膨大な棉花の需要が誕生したからでした。さらに、三井物産と豊田佐吉との関係や、棉花貿易の見通しに関する東洋棉花の勧説など、三井関係各社の協力も見逃せません。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.7.15
昭和17年3月 社名を「三井倉庫株式会社」と改称
歴史コラム 戦時中編
世界大恐慌によって、統制経済へと進んだ日本経済
第二次世界大戦の終戦から2015年でちょうど70年、この戦争の悲劇を振り返る機会も多くなっています。日本が第二次世界大戦に向かう過程で、日本経済はどのような道を歩んできたのでしょうか。
第二次世界大戦の遠因とされているのが、1929(昭和4)年10月に発生した世界大恐慌です。アメリカの株式市場は1924(大正13)年から1929年までの5年間でダウ平均株価が5倍もの高騰を見せましたが、1929年10月24日から暴落が始まり、10月29日の一日で時価総額140億ドル(現在の貨幣価値で約100兆円)、その前後一週間で300億ドル(同、約200兆円)が失われる株式市場の大暴落が発生し、大不況の波が世界中を襲ったのです。
日本でも輸出商品の主力であった生糸のアメリカ向け輸出が激減するなど、世界大恐慌の影響を大きく受けました。このため、1931年に重要産業統制法が制定されて24種事業が指定され、1941(昭和16)年には重要産業団体令に基づいて12部門の統制会が設けられるなど、国家が国民経済に強く干渉する経済統制が進められました。
現在も残る統制経済の影響
野口悠紀雄氏が「1940年体制」と名付けたように、1940(昭和15)年頃に確立した経済統制の仕組みは戦時経済を支えただけでなく、一部は戦後にも脈々と引き継がれました。1940年の税制改正で導入された法人税や給与所得者に対する源泉徴収など、直接税中心の税体系もその一つです。
企業活動について言えば、かつては全国に中小規模の銀行が数多くあったのに対し、「一県一行主義」が推し進められた結果、1932(昭和7)年末に538行あった普通銀行は、1935(昭和10)年末に466行、1941年末に186行、1945(昭和20)年末には61行(都市銀行8、地方銀行53)と激減しました。現在の地方銀行トップの横浜銀行も、1941年に7行が合併して神奈川県唯一の銀行(一県一行)となった、横浜興信銀行が前身にあたります。
水産物の流通についても、水産統制令が1942(昭和17)年5月に公布されました。そこで同年12月に、日本水産から譲渡された冷蔵および販売部門を中心とする18社の出資によって、帝国水産統制が設立されました。終戦後の1945年11月に水産統制令は廃止され、同年12月に帝国水産統制は改組されて日本冷蔵(現在のニチレイ)になっています。そのため、横浜銀行もニチレイも、統制経済で生み出された枠組みが現在まで続いているとも言えるのです。
三井の商号を掲げるために、社名を変更
三井倉庫ホールディングスの前身は、1909(明治42)年10月に三井銀行倉庫部が分離独立し、東神倉庫という社名で創立されました。三井倉庫と名乗ることを希望する声もあったものの、当時の三井財閥で三井の名を冠する企業は資本金5,000万円の三井本社と、資本金2,000万円の三井銀行、三井物産の3社だけでした。倉庫部門は資本金200万円と比較的小規模のため、上記の3社と並立することができず、三井倉庫ではなく拠点の置かれた東京と神戸にちなんで東神倉庫として出発しました。
その後は何度も三井倉庫への改称が発案されたものの実現せず、ようやく三井倉庫と名乗ることができたのは1942(昭和17)年3月のことでした。この背景には先に述べた統制経済という時代背景がありました。
倉庫業の業界団体として「同業者ノ共同利益ノ増進」を目的とする日本倉庫協会がありましたが、この日本倉庫協会を発展的に解消し、「倉庫業ノ統制」を目的とする日本倉庫業会が1941年6月に設立されました。その後、商工省(現在の経済産業省)は1943(昭和18)年5月の日本倉庫業会理事会において、倉庫業界の主要15社の統合を推進し、15社の総坪数約65万坪を三井倉庫、三菱倉庫、住友倉庫の3社に1社約20万坪ずつに集約化する方針を示しています。
こうした経済統制の進展に予め対応するためには、三井の商号を掲げた方が有利であるとの判断が、当時の三井財閥の統轄部門である三井総元方で働いたのでしょう。経済の自由が奪われ、国家による統制が経済だけでなく国全体を覆う時代を生き抜くためには、三菱倉庫、住友倉庫と並んで、日本経済を牽引する財閥の一員であることを軍や官庁に対して示すためにも、三井の名を冠する必要があったのです。
三井倉庫は2014(平成26)年10月に三井倉庫ホールディングスと社名を変更して持株会社制に移行し、三井倉庫、三井倉庫ビジネストラストを新設分割により設立するなど、新たな企業形態に生まれ変わりました。しかし、三井倉庫という社名は、もともとは統制経済という厳しい時代の中で生み出された名称だったのです。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.8.11
戦争の被害を乗り越え、閉ざされた財閥企業から開かれた企業へ
歴史コラム 上場編
多くの犠牲を生んだ戦争
1937(昭和17)年7月の盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争勃発から、1945(昭和20)年8月の第二次世界大戦終結までの間に、日本だけでも軍人・軍属230万人以上、民間人80万人以上、合計310万人以上にもおよぶ大きな犠牲が生まれました。民間人80万人以上の犠牲のうち、海外での犠牲者30万人以上、日本国内での犠牲者50万人以上とされ、日本国内での犠牲者の多くは空襲による被害とされています。
1945年3月9日深夜から10日にかけての東京大空襲により、死者約8万4,000人、全焼家屋約26万7,000戸の大きな被害があり、東京では終戦までに合計122回の空襲がありました。8月6日に投下された原子爆弾によって、広島では14万人以上が死亡し、建物の約90%が全焼または全壊しました。長崎でも8月9日に原子爆弾が投下され、死者7万4,000人以上、建物の約36%が全焼または全半壊しました。
財閥解体と経済民主化
日本政府は1945年8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が占領政策を実行しました。GHQの最大の目標は日本の非軍事化であり、その手段として日本の民主化が推し進められました。民主化の五大改革として、「参政権を与えることによる女性の解放」、「労働者の団結権の保障」、「教育の民主化」、「秘密警察制度など、圧政的諸制度の撤廃」、「経済の民主化」が実施されます。
アメリカ政府は9月22日付で「初期の対日方針」を公表し、「日本国の商工業の大部分を支配してきた産業上および金融上の大コンビネーションの解体」によって、経済の民主化を実現しようとしました。この背景には、財閥(産業上および金融上の大コンビネーション)が日本の軍国主義を支えたという、アメリカ政府の認識があったのです。
11月24日には企業の解散や資産処分を大蔵大臣の認可制とする「会社の解散の制限等に関する勅令」、いわゆる制限会社令が公布され、1947(昭和22)年6月までに3,725社が制限会社の指定を受けました。この間、1946(昭和21)年8月に発足された持株会社整理委員会によって、財閥解体が推し進められました。1946年9月に第1次指定として三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社、富士産業の5社が指定され、1947年9月の第5次指定までに83社が指定を受け、各企業は次々と清算されました。
三井倉庫における戦災と接収の影響
三井倉庫の所有する倉庫も戦災によって大きな被害を受け、さらに残された倉庫もGHQに接収されてしまったため、三井倉庫の再出発は苦難を余儀なくされました。たとえば東京支店の場合、所有倉庫の27.3%が戦災を被り、12.3%の倉庫がGHQに接収されてしまい、業務再開時には所有倉庫の約60%しか利用できませんでした。横浜支店の状況はより深刻で、戦災を免れたすべての倉庫がGHQに接収されてしまい、個人所有の倉庫や本町小学校講堂の一部を新たに借庫することで、1,719平方メートル(521坪)のスペースを確保するのがやっとでした。
倉庫業務だけでなく港運業務も戦時統制の影響を大きく受け、1942(昭和17)年末に設立された統制会社に吸収されていましたが、終戦により統制会社が解散され、船舶も返還されることになりました。しかし、三井倉庫が供出していた船舶のうち、艀船43.4%、曳船40.1%しか返還されず、返還された船舶には完全な船が1隻もありませんでした。船舶の修繕や備品の補充のために、1949(昭和24)年末までに3,140万円という、当時の資本金1,500万円と比べて莫大な費用を必要としました。
株式公開により開かれた企業へ
三井本社が100%所有していた三井倉庫の全株式30万株は、財閥解体にともなって持株整理委員会に移され、1949年9月22日に公開入札されました。一方で、三井倉庫も多くの株式を所有しており、所有株式25銘柄11万4,311株を処分することで、ようやく制限会社の指定解除を受ける条件が整いました。12月27日に三井倉庫は大蔵省に「制限会社解除についての条件完備報告書」を提出し、翌1950(昭和25)年4月20日付で制限会社解除の大蔵省告示がなされました。
三井倉庫は4月21日に東京証券取引所に上場するにあたり、3月28日の臨時株主総会において、資本金を1,500万円(30万株)から1億2,000万円(240万株)に増資することを決定しました。この増資によって、増資前の株主数1,462名(1950年5月31日時点)から2,864名(同年9月30日時点)へと、株主数が倍増しました。
三井倉庫の株主は、戦前は三井本社1社でしたが、戦後は持株会社整理員会による公開入札により1,462名に増加し、さらに株式上場直後の増資にともなって2,864名となりました。これは財閥という閉鎖的な資本関係から、株式市場を通じた開かれた資本関係へという、経済民主化の象徴とも言える変化です。また増資によって得た資金は、倉庫・事務所の本格的な修復、船舶・機械装置・車両・工具などの整備拡充に充てられました。1950(昭和25)年4月の東京証券取引所への株式上場は、経済民主化という面でも、戦災復興という面でも、大きな画期となる出来事だったのです。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.9.30
顧客のニーズに対応して、自動車運送事業に進出
歴史コラム 戦後編
世界トップレベルの高度経済成長
「もはや戦後ではない」と1956(昭和31)年の『経済白書』に書かれたように、日本は戦後混乱期から戦後復興期を経て、1954(昭和29)年12月から1973(昭和48)年11月まで約19年間も続く、高度経済成長期に突入したのです。
第二次世界大戦により多くの人命や設備などを失った日本は、1945(昭和20)年10月から1949(昭和24)年4月までの間に約100倍もの消費者物価指数の高騰というハイパー・インフレーションを経験し、経済的な混乱は戦後になっても続きました。しかし、1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争によって特需景気が発生したことで、日本はようやく戦後混乱期を脱し、本格的な戦後復興を果たすことができました。
その後、日本は1955(昭和30)年から1973年まで実質経済成長率が平均9.8%という高度経済成長を経験することになりました。1978年12月に始まる改革開放施策の結果、中国の実質経済成長率も1980年から2014年まで平均9.8%となっており、現在の中国の経済成長に匹敵する著しい経済成長をかつての日本も経験していたのです。
陸上輸送の主役は鉄道から自動車へ
高度経済成長は大量生産とともに大量流通、大量販売をもたらし、物流の面でも大きな変化を生み出しました。1990(平成2)年の『運輸白書』によれば、国内貨物輸送量は1955年の約10億トンから1965(昭和40)年には約25億トン、1972(昭和47)年には約60億トンと、経済成長率を上回るペースでの増大が続きました。
これは単に輸送量が増加しただけでなく、輸送を担当する手段の変化も伴っていました。1955年の時点でも、輸送トン数では自動車67.8%、鉄道24.6%、内航海運7.6%と既に自動車が主流となっていましたが、輸送距離も勘案した輸送トン・キロでは自動車9.7%、鉄道52.0%、内航海運38.3%と、長距離輸送中心に鉄道運送がまだ大きな役割を担っていました。1965年になると、輸送トン数では自動車83.5%、鉄道9.6%、内航海運6.9%と鉄道の割合が大きく減少し、輸送トン・キロでも自動車26.6%、鉄道30.3%、内航海運43.1%と自動車と鉄道が拮抗するようになりました。さらに1975(昭和50)年には、輸送トン数では自動車87.4%、鉄道3.6%、内航海運9.0%となり、輸送トン・キロでも自動車35.9%、鉄道13.1%、内航海運51.0%となるなど、陸上輸送の主力の鉄道から自動車への移行が明確になりました。
倉庫業務の中心も保管倉庫から流通倉庫へ
このような状況に対応するため、三井倉庫は1963(昭和38)年に大阪支店三島倉庫、1964(昭和39)年に名古屋支店西春倉庫、1967(昭和42)年に東京支店厚木倉庫と、高速道路のインターチェンジ付近に郊外倉庫を次々に建設しました。
従来は市中倉庫による保管貯蔵を業務の中心としていたものの、郊外倉庫が増加したことで倉庫からの配送能力の強化が求められるようになりました。三井倉庫としても、顧客への迅速正確なサービスと経費の節減を求める物流需要に応えるため、末端配送だけでなく、貨主の物流業務を総合して引き受ける方向に次第に進んでいきました。荷役、保管、輸送だけでなくコンピューターによる正確な在庫管理と情報連絡や、仕訳、包装などの流通加工に至るまでの業務を一括処理し、良質で廉価なサービスの提供を目指した業容拡大が進展したのです。
コンテナによる海陸一貫輸送
日本の陸上輸送における自動車輸送の拡大と同時期に、世界的では物流において大きな変化が生じていました。それはアメリカのマルコム・マクリーン氏が発明したとされる、標準化されたコンテナによる荷役・輸送(コンテナリゼーション)です。マクリーン氏は1935(昭和10)年に高校を卒業してトラック輸送に従事する中で、貨物船の荷役に時間がかかりすぎることに大きな疑問を持ちました。その後、彼はトラック輸送会社を経営していましたが、1955年に自社を売却して代わりに海運会社を買収し、1956(昭和31)年にはコンテナ船による輸送を開始しました。
マクリーン氏は海(Sea)陸(Land)一貫輸送という理想を込めて、1960(昭和35)年に海運会社の名前をシーランド(Sea-Land Service, Inc.)と改称しました。シーランド社は1966(昭和41)年にアメリカ大西洋岸-ヨーロッパ航路にコンテナ船を投入し、1968(昭和43)年にはアメリカ太平洋岸-日本航路にコンテナ船を投入するなど、コンテナリゼーションを牽引する存在でした。シーランド社の国際定航部門は1999(平成11)年にデンマークのマースク社に合併されてマースク・シーランド社となり、2006(平成18)年には現在の社名のマースク・ライン社となっています。
自動車運送業の開始
三井倉庫は従来、サービスとして貨主のために運送の手配をすることはあっても、自社で運送を引き受けることはありませんでした。しかし、三井倉庫はまずは自動車運送取扱事業に進出することになりました。自動車運送取扱事業では運送を自営できないため、各店で自動車運送業者を選定し、1966年に東京支店と横浜支店、1967年に名古屋支店と大阪支店、神戸支店、門司支店で事業登録を受けました。
三井倉庫の陸運業務が飛躍的に拡大発展する契機となったのは、1968年にシーランド社の業務をはじめとして、海上コンテナの運送を開始したことです。三井倉庫は海上コンテナの輸送をきっかけに陸上運送も自営する方針を定め、1969(昭和44)年に神戸支店と横浜支店、1971(昭和46)年に名古屋支店、1972年に門司支店で貨物自動車運送事業の免許を取得しました。
日本国内では1950年代半ばから陸上輸送の鉄道から自動車への移行が発生し、それにともなって高速道路のインターチェンジ付近に流通団地倉庫が次々と建設されることで、倉庫業務も市中倉庫による保管貯蔵から郊外倉庫を中心とした総合物流へと発展していきました。さらに、コンテナによる海陸一貫輸送が国際的に進む中で、三井倉庫はコンテナリゼーションの先駆者であるシーランド社などのコンテナターミナル作業と陸上運送の委託を受けて、陸上運送業務を大きく発展させました。輸送手段の移行という時代の変化を捉え、顧客のニーズに対応しながら業容を拡大したことが、現在の三井倉庫の幅広い業務にもつながっているのです。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2015.11.27
国際化が迫る中で、組織変革によって時代の波を乗り越える
歴史コラム 国際化編
日本でのオリンピックと万博の開催
2020年に開催される2回目の東京オリンピックは、日本で開催される久々の大規模な国際イベントとして注目を集めています。振り返れば、最初の東京オリンピックが開催されたのは1964(昭和39)年でした。このオリンピックは日本のみならず、アジア地域でも初めて開催されたオリンピックとなりました。続く1972(昭和47)年にも、やはりアジア地域初の冬季オリンピックである、札幌冬季オリンピックが開催されています。
この時期に日本で開催された大規模な国際イベントはオリンピックだけでなく、1970(昭和45)年に開催された大阪万博(正式名称:日本万国博覧会)は、日本を含むアジア地域で開催された初めての万国博覧会でした。大阪万博には77か国・地域の参加があり、入場者数は6400万人以上と、2010年の上海万博に抜かれるまで、長きに渡り万博史上最大の入場者数を誇っていました。
1945(昭和20)年に終戦を迎え、焼け野原から再出発した日本は、1954(昭和29)年から約19年間も続いた高度経済成長を経て、急速な経済成長を遂げました。1956(昭和31)年には日本もようやく国際連合に加盟するなど、日本も国際舞台に徐々に復帰するようになり、1960年代から1970年代にかけて数々の大規模な国際イベントが日本でも開催されました。
国際化の時代の物流と流通
1960年代から1970年代にかけて、日本は大規模な国際イベントを開催する一方で、国際貿易や国際流通の面での大きな変化にも直面していました。前回紹介した通り、シーランド(Sea-Land Service, Inc.)社が1966(昭和41)年にアメリカ大西洋岸-ヨーロッパ航路にコンテナ船を投入し、1968(昭和43)年にはアメリカ太平洋岸-日本航路にコンテナ船を投入するなど、物流業界はコンテナ輸送や国際複合輸送によって変革の時代を迎えていたのです。
そうした状況に対応するため、三井倉庫の社内報『三井倉苑』の1974(昭和49)年の年頭の辞で、当時の竹内自益会長は、「最大の努力を傾注して取り組まん」とする事項の一つとして、「海外業者との提携による米国をはじめとする海外市場開拓の実効を挙げ、国際的規模をもった一貫流通業者としての体制を確立すること」を挙げています。
三井倉庫の国際化と組織改革
三井倉庫は戦前にも海外進出を果たしており、戦後の再出発後も国際関係業務に携わっていましたが、国際関係業務は業務部や海上業務部が適宜処理しており、専門の部署は存在しませんでした。そこで1974年5月に「国際部」が新設され、それまで海上業務部が所管していたロサンゼルス駐在員も国際部に移管され、10月にはニューヨークにも駐在員を派遣するなど、国際業務を拡大していきました。
次いで1976(昭和51)年1月には、神戸支店の輸出課が「プラント輸出課」に改称されました。一般雑貨のコンテナ化やバラ貨物の専用施設利用などの貨物流通形態の変化により、在来貨物の中でプラント貨物の重要性が高まっていたことから、プラント部門への進出を制度化したのです。この動きは直ちに全社的な取り組みにつながり、同年6月には従来の国際関係業務を担う「業務課」とともに、プラント取扱業務推進のための「プラント課」が国際部に設置されました。
翌1977(昭和52)年12月には、営業面の強化と効率化のために本店機構を再編成することになり、輸出課などを抱える従来の海上業務部が国際部へと改称され、プラント課を抱える従来の国際部はプラント部となりました。新たな国際部は在来輸出取扱業務を拡大し、関連会社を含めた取扱量は、1978(昭和53)年度には91万6,818トンから、1984(昭和59)年度には147万9,427トンと1.6倍以上に増加しています。
コンテナ輸送や国際複合輸送によって、物流業界は大きな変化を余儀なくされました。こうした状況に直面する中で、三井倉庫はコンテナ輸送に対応する一方、在来輸出取扱業務を新たな国際部が担当し、プラント業務は新設のプラント部が担当する組織体制を築き上げました。国際化という時代の変化に迅速に対応し、組織を柔軟に変革させることができたからこそ、三井倉庫は新たな時代の波に乗ってさらなる成長を遂げることができたのです。1909(明治42)年の東神倉庫としての出発点から、100年以上の歴史を持つ三井倉庫が存続しているのは、企業文化を継承する一方で、常に時代の変化に対応してきたからであると言えます。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2016.1.29
陸と海に続き、空飛ぶ新たな貨物輸送の時代に対応
歴史コラム 航空貨物編
航空郵便や旅客機を利用した小口貨物輸送の時代
「かんじんなことは目に見えないんだよ」というフレーズで有名な、『星の王子さま』の著者であるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、小説家であると同時に飛行士でもありました。1900年生まれのサン=テグジュペリは、1926年に郵便飛行士となったものの、1927年にはサハラ砂漠、1935年にはリビア砂漠に不時着して遭難を経験しています。彼の飛行士としての経験や砂漠での遭難も、『星の王子さま』のストーリーに反映されているのです。
サン=テグジュペリが航空郵便の飛行士だったように、航空貨物輸送は郵便輸送から始まりました。ライト兄弟が1903年に世界初の有人動力飛行に成功し、1911年頃から不定期の航空郵便事業が、1918年には定期の国際航空郵便事業が始まりました。1935年にはダグラス・エアクラフト社(現ボーイング社)のDC-3が初飛行しましたが、この飛行機は定員21名と当時としては画期的な大型の機体でした。DC-3が翌1936年から運用開始されると定期旅客便事業が拡大し、旅客機を利用したベリー(Belly)便による小口貨物の輸送も始まりました。
貨物専用機による航空貨物の時代
欧米で航空貨物輸送が急速に拡大したのは1960年代以降です。1958年にボーイング社のボーイング707が、翌1959年にダグラス・エアクラフト社のDC-8が就航したことで、一気にジェット旅客機の時代が到来しました。ボーイング707やDC-8は、従来のプロペラ機に比べて巡航速度も乗客数も約2倍という高性能を誇りました。これらの旅客機を貨物専用にした機体によるフレーター(Freighter)便も本格化し、貨物型のボーイング707Fで最大貨物搭載量約40トン、DC-8Fで最大貨物搭載量約50トンもの航空貨物を輸送できるようになりました。
航空貨物量をさらに拡大させたのは、「ジャンボ・ジェット」の愛称で親しまれたボーイング社のボーイング747の存在です。ボーイング747は1970年に就航しましたが、当時は英仏共同開発のコンコルドが1969年に初飛行し、ボーイング社自身もボーイング2707を開発中で、いずれはコンコルドやボーイング2707などの超音速機が旅客機の主流になると考えられていました。ボーイング747は超音速機の普及後に貨物専用機として転用することも想定し、操縦席を上部デッキに配置する2階建てになっており、貨物型では機首部分が上方向に開く「ノーズドア」になっている機体もあります。その結果、貨物型として現在一般的な747-400Fで120トン、最新型の747-8Fで140トンと、ボーイング707FやDC-8Fの約3倍の最大貨物搭載量を持つようになりました。
認可基準を達成して三井倉庫としてIATA航空貨物代理店へ
欧米から約10年遅れ、日本でも1970年代以降に国際航空貨物輸送が急拡大しました。1970(昭和45)年度には約3万5,000トンであった輸出入航空貨物量は、5年後の1975(昭和50)年度には約11万トン、さらに5年後の1980(昭和55)年度には約30万トンに急増しています。
三井倉庫も航空貨物輸送の将来性に着目し、早くも1967(昭和42)年の企画室の発足時から、1978(昭和53)年の成田空港の開港と関連した航空貨物取扱業務の検討が始まっていました。その後、1978年12月にオランダのVan
Gend & Loos N. V.(VGL)社と航空貨物の集貨および取扱代理店契約を締結したことで、国際航空貨物の取扱業務を本格的に開始しました。VGL社とは1977(昭和52)年4月から業務提携を開始しており、翌1978年11月には運送業と倉庫業を主体とした国際複合輸送代理店を行う会社として、オランダの貿易拠点であるロッテルダムにMitsui
Soko B. V.を三井倉庫とVGL社の合弁で設立する関係でした。
国際航空貨物の取扱業務開始から1年半を経過した1980年秋には、得意先が150社を超え、京浜地区における取扱件数は月間150件に及び、ロンドンやアムステルダムを中心としたヨーロッパ向け貨物を中心に業績は順調に推移しました。同年11月には東京支店(箱崎事務所)と名古屋支店(中川事務所)に航空貨物センターを設置し、通関業務を除いた現業部門の自営体制を確立しました。
しかし、IATA(International Air Transport Association、国際航空運送協会)貨物代理店のサブエージェントとしての立場には限界があったため、年間売上高や組織・職員・諸施設などの認可基準を達成した1982(昭和57)年4月に、IATAに対して航空貨物代理店の認可申請を行いました。三井倉庫は同年6月に日本で42番目のIATA航空貨物代理店として認可され、京浜地区と名古屋地区に続いて、関西や九州でも航空貨物取扱業務を開始しました。
倉庫業単独から、陸運、海運を結ぶ総合物流業務へと三井倉庫の業容が拡大する中で、時代の変化に敏感に対応して、航空貨物輸送へも進出することになりました。三井倉庫は海運と航空貨物を結びつけたSea & Air Serviceの商品開発も行い、1984(昭和59)年には米国ロサンゼルス経由とシンガポール経由でのSea
& Air Serviceを展開するなど、荷主のニーズに応えて三井倉庫は海外ネットワークを整備して行きました。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2016.5.31
非商品物流の推進と新たなブランド・アイデンティティの確立
歴史コラム トランクルーム編
拡大する収納サービス市場
矢野経済研究所の「レンタル収納・コンテナ収納・トランクルーム市場に関する調査結果2013」によれば、2012年度の国内収納サービスの市場規模は前年度比7.4%増の489.2億円となっており、2013年度は前年度比6.6%増の521.5億円と予測されていました。2011年3月11日に発生した東日本大震災の経験によって、貴重品や思い出の品などを自宅に保管しておくことで建物の倒壊や津波、火災などの被害でそれらを喪失してしまう不安が高まり、リスク分散としての国内収容サービスのニーズが2011年度以降さらに増大しています。
国内収納サービスはトランクルーム、レンタル収納、コンテナ収納の3種類に分かれます。トランクルームとは倉庫事業者が荷物を預かるサービスを指し、国土交通省の標準トランクルームサービス約款に基づいて荷物の保証義務も定められています。一方でレンタル収納とコンテナ収納は、主に不動産業者による事業で、荷物を預ける場所を貸し出すサービスです。ビルや専用建物などの屋内に収納スペースを提供する場合をレンタル収納と呼び、屋外のコンテナや鋼製物置などを収納スペースとして提供する場合をコンテナ収納と呼びます。2012年度の市場規模の内訳は、トランクルームは前年度比1.2%増の33.5億円、レンタル収納は前年度比2.8%増の206.1億円、コンテナ収納は対前年度比12.5%増の249.6億円となっています。
トランクルームの出発点
トランクルームとはいつから始まったサービスなのでしょうか?日本初のトランクルームは、三菱倉庫が1931(昭和6)年1月に設立した江戸橋倉庫に置かれたと言われています。当時、米国で流行していた家具倉庫をヒントに、貴重品である家具や家財、衣料品などの安全保管に着目し、トランク(trunk、行李)単位での寄託を想定して「トランクルーム」と名付け、開業当初は富裕層の絵画や歌舞伎役者の衣装などが保管されていました。
三井倉庫も銀座松坂屋の地下室を借りて毛皮や骨董品などを保管するトランクルームを経営する計画を1941(昭和16)年11月に立てましたが、資材難により実現に至りませんでした。その後、1944(昭和19)年5月に日本倉庫統制株式会社に倉庫営業のすべてを供出したため、新規事業として東京都民の家財を福島県や山梨県への疎開させる「疎開家財保管」を手がけました。三井倉庫は長らく倉庫業と港湾運送業を主軸として営業を行っており、法人からの商品の寄託が主体でしたが、個人を対象として非商品を取り扱った出発点がこの疎開家財保管でした。
三井倉庫は倉庫業の新分野としてトランクルームにも注目しており、竹中工務店が大手町に建設する東京貿易会館ビルの地下1階、2階を賃借して、1957(昭和32)年9月に「大手町トランクルーム」を開設しました。主な取扱貨物は衣類、毛皮、双眼鏡、ピアノ、美術品などでしたが、特に毛皮や皮コート類の入庫が増えて1968(昭和43)年頃から満庫状態になるほどで、箱崎五階建倉庫の一部を1969(昭和44年)年からトランクルームに転換することになりました。一方で、大手町トランクルームが入居するビルの建て替えに伴い、1983(昭和58)年9月に完成した大手町センタービルの地下4階の一部を賃借して、新「大手町トランクルーム」を開設しました。
ビッグバッグというブランド
1983年4月から三井倉庫流通部は「トランクルーム保管」「家財コンテナ保管」「引越運送取扱」の個別業務を非商品の物流として総合化するため、新しい事業体制づくりを目指すことになりました。同年6月には東京支店大手町トランクルーム事業所の一部に「引越相談室」を設置し、引越に伴う短期保管の家財の増加に対応した家財専用コンテナを開発しました。従来は主に法人を対象に商品の物流を担っていた三井倉庫が、主に個人を対象に非商品の物流を本格化する上で、新たなブランド・アイデンティティの確立が必要でした。そこで1986年5月に三井倉庫社内に流通部を中心としたプロジェクトチームを編成し、ブランド・アイデンティティの手法に基づいて、商品名や基本コンセプトを定めることになりました。その成果が、1986年11月に流通部から分離独立して発足した「ビッグバッグ事業部」です。ビッグバッグ(BIG
BAG)のバッグには2つの意味があり、「物を入れる(HOLD):保管(BAGにしまう)」と「物を運ぶ(CARRY):運送(BAGに入れて持ち運ぶ)」という保管と運送の両方の意味を含んでいます。
現在でも美術品・貴重品保管サービスのために美術品専用トランクルームを運営するなど、三井倉庫が提供する幅広いソリューション(解決策)の中には、トランクルームに代表される非商品物流が含まれています。その源流は戦前のトランクルーム運営計画や疎開家財保管から始まり、1980年代に非商品の保管と運送の意味を含む「ビッグバッグ」というブランドを打ち出すまでに発展しました。三井倉庫の事業が総合物流業務へと発展する歴史において、こうした非商品物流の推進も重要な役割を担っているのです。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2016.7.31
グローバル総合物流企業として、新たな飛躍の100年へ
歴史コラム 創立100周年を迎える
バブル景気と失われた20年
1973(昭和48)年と1979(昭和54)年の二度の石油危機による混乱を克服し、安定成長期を迎えていた日本経済は、1985(昭和60)年9月のプラザ合意によって再び大きな影響を受けました。プラザ合意とは、米国ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)における、為替レートについての合意を指します。この合意は円高ドル安を誘導し、プラザ合意直前の1ドル240円台から2年後の1987(昭和62)年末には1ドル120円台まで円高ドル安が進展しました。急速な円高により製造業は日本国内では採算が合わなくなり、円高不況が発生するとともに、製造業の海外移転が本格化しました。
深刻な円高不況に対して、日本銀行はプラザ合意の翌年の1986(昭和61)年から5回の利下げを実施し、日本政府も内需拡大を目的とする公共投資拡大などの積極財政を採用したことで、結果的に土地や株式などへの投機が進んでバブル景気が発生しました。バブル景気は、景気動向指数(Composite
Index、CI)によれば1986年12月から1991(平成3)年2月まで51ヶ月間続き、内閣府によれば好景気の実感はさらにあと1年間、1992(平成4)年2月まで継続したとされています。
バブル崩壊後の景気後退期は1991年3月から1993(平成5)年10月までとされています。しかし、厚生労働省によれば有効求人倍率(求職者に対する求人の件数)は1992年10月時点では1.02とまだ1倍を超えていたものの、翌1993年10月時点では0.70倍と1倍を切り、その後も1997(平成9)年10月の0.71まで0.7前後で推移し、さらに1998(平成10)年10月には0.49と0.5を割り込む状態に陥りました。バブル崩壊で発生した不良債権の処理が進まず、1997年11月に北海道拓殖銀行、1998年10月に日本長期信用銀行、1998年12月に日本債券信用銀行が相次いで経営破綻するという国内要因に加え、1997年7月に発生したアジア通貨危機が発生するという国際的な不況の波に襲われたのです。
日本経済は不良債権というバブル崩壊が残した重荷を背負ったまま、アジア通貨危機という新たな不況に見舞われ、その後もITバブルとその崩壊など景気の波を繰り返しつつも、有効求人倍率が1を割り込む時期が長く続きました。振り返ってみれば、バブル崩壊後は実感としての不況が長らく続き、「失われた20年」と呼ばれるようになりました。
バブル崩壊後の物流とグローバル化
日本経済が失われた20年と呼ばれる長期不況に悩み続けた期間、物流の動きも同様に停滞していたのでしょうか?国土交通省によれば、国内貨物輸送量(輸送トン数)は1985年度が55億97256万トン、1990(平成2)年度は67億7626万トン、1995(平成7)年度は66億4301万トン、2000(平成12)年度は63億7102万トン、2005(平成17)年度は54億4558万トン、2010(平成22)年度は48億9158万トンとなっています。バブル景気の末期である1991(平成3)年度の69億1927万トンをピークに、国内貨物輸送量は年々減少しています。
一方で、国際貨物輸送量(輸送トン数)について見ると、1985年度の6億7480万トンから、1990年度には7億6950万トン、1995年度には8億5422万トン、2000年度には8億8974万トン、2005年度には9億4999万トン、2010年度には9億1445万トンとなっています。直近のピークである2008(平成20)年度には9億7009万トンから、2008年9月に発生したリーマン・ショックによる世界的な不況により、翌2009(平成21)年度には8億3251万トンと対前年比14.2%という大きな落ち込みを見せましたが、2010年には対前年比10.0%と急回復して9億トンを超えています。
国内貨物輸送は1991年をピークにバブル崩壊後20年間以上も縮小し続けているものの、国際貨物輸送はバブル崩壊後もほぼ一貫して拡大し続けているのです。もちろん、国内貨物輸送の総輸送量は減少しているとは言っても、顧客の求めるもの(ニーズ)は変化し続けているので、国内貨物輸送にもまだまだ大きな可能性はあります。けれども、物流全体の動向としては、国際貨物輸送の増大、つまりグローバル化の進展という大きな流れ(トレンド)が存在しているのです。
三井倉庫のこれまでの100年とこれからの100年
三井倉庫は1909(明治42)年10月に東神倉庫株式会社として設立され、2009年10月に創立100年を迎えました。その間の1942(昭和17)年3月には三井倉庫株式会社と改称され、創立100周年後の2014(平成26)年10月には三井倉庫ホールディングスを持株会社とする持株会社制に移行するなど、社名や体制も時代に即して変化しています。事業内容についても、設立当初は社名通り倉庫保管が中心でしたが、港湾運送、陸上輸送、航空貨物など陸海空一貫した総合物流企業として発展してきました。
三井倉庫ホールディングスの藤岡圭社長は「三井倉庫には、創業百年の歴史のなかで培ってきた『保管』を中心とする優れた技術があります。その技術をコアコンピタンスとして国内で存在感を主張するのか、それとも世界に打って出てグローバル総合物流企業として変革を遂げるか。二つに一つの未来を考えたとき、私は後者の途を取るべきだと考えました」とインタビューで語っています。
バブル崩壊後の失われた20年の中でも、国際貨物輸送は着実に増大しており、グローバル化の進展を止めることはできません。三井倉庫グループは100年余りの歴史の中で、当コラムで紹介してきたように事業の幅を広げながら、総合物流企業としてのサービスを拡大してきました。この優れた対応力を活かしつつ、三井倉庫グループはグローバルな総合物流企業としてさらなる成長を遂げることが期待されます。
横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎
2016.9.16