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大正07年 大阪編

歴史コラム 大正07年 大阪編

江戸時代からの物流の中心、大阪に進出


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               大正初期の大阪・中之島倉庫の様子

 

<蔵屋敷が生んだ、世界初の米の先物取引所>

大阪は1868(明治元)年に「大阪府」が置かれるまで「大坂」と標記され、江戸時代における日本の物流の中心でした。【東京編】でも触れたように、日本全国で徴収された年貢米の大部分は、江戸(東京)と大坂(大阪)に送り出され、これらの御廻米(おかいまい)を収容する領主の倉庫施設は蔵屋敷(くらやしき)と呼ばれました。

大阪には最大で120以上の蔵屋敷が置かれ、市場に出回る米500万石前後の4割にあたる、200万石程度の米が取引されていたと言われています。蔵屋敷の多くは淀川(現在の旧淀川)の下流、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島に集まっていました。堂島川を挟んで中之島の北側にある堂島には、蔵屋敷が発行した米の保管証明書である米切手を売買するため、1730(亨保15)年に堂島米会所が開設されました。米将軍と呼ばれた第8代将軍徳川吉宗が、「大岡裁き」で有名な大岡越前守忠相を通じて、世界初の公設先物取引所である堂島米会所を整備したのです。世界最大の穀物先物取引所とされるシカゴ商品先物取引所の設立が1848年ですから、その設立よりも118年前に、ほぼ同様の仕組みを採用する先物取引所が大阪に設立されていました。

  

              米の保管の様子 (九州下関倉庫 昭和25年頃)

 

<米の保管から、砂糖と繊維関係の保管へ>

1871(明治4)年の廃藩置県によって、各藩が所有していた蔵屋敷は明治政府の所有となり、その後、民間に払い下げられました。東京でも蔵屋敷が倉庫業の出発点となったのと同様に、大阪でも蔵屋敷が倉庫業の出発点となりました。

大阪における近代倉庫業のパイオニアとして、江戸時代最大の豪商であった鴻池家の第11代鴻池善右衛門(善次郎)が中心となり、1883(明治16)年に大阪倉庫会社が設立されました。後に東神倉庫(三井倉庫)に加わる大阪倉庫会社は、中之島三丁目の旧筑前黒田藩の蔵屋敷を買い入れて、最初の所有倉庫としています。この黒田藩蔵屋敷の長屋門は、1933(昭和8)年に旧中之島三井ビルディングが建設される際に大阪市に寄贈され、天王寺公園の大阪市立美術館南通用門として移築されており、現在もその姿を確認することができます。


黒田藩蔵屋敷の長屋門

 大阪倉庫会社設立直後の1883年下期の業績を見ると、米の保管料収入が91.2%を占め、江戸時代の蔵屋敷と同様に米の保管が業務の中心でした。しかし、米の保管料収入は1897(明治30)年には54.2%、1900(明治33)年には42.6%と低下する一方で、1900年には繊維関係と砂糖の保管料収入がそれぞれ17.7%ずつに達しています。この背景には、1887年から1900年にかけて三島紡績、天満紡績、浪華紡績、摂津紡績、平野紡績、八幡紡績、尼崎紡績などの紡績会社が大阪周辺に設立されたことや、大阪の都島で1897年に日本精糖が設立されたことが影響しています。

<大阪倉庫会社を買収、大阪支店として営業を開始>

大阪倉庫会社は鴻池善右衛門が社長を務め、鴻池合名会社専務理事の原田二郎が1903(明治36)年から副社長として経営の実務を担っていました。しかし、原田二郎は鴻池家の直営事業を銀行経営に限定する家政改革(リストラクチャリング)を断行し、業績好調にもかかわらず大阪倉庫会社の売却を決定しました。大阪進出を計画していた東神倉庫(三井倉庫)は、2年近くの交渉の末、1917(大正6)12月に大阪倉庫会社を買収し、翌1918(大正7)年1月から大阪支店として営業を開始しました。

大阪倉庫会社の保管残高約3,000万円は、当時の東神倉庫の神戸支店と門司支店の保管残高合計に匹敵し、大阪倉庫会社の買収は東神倉庫の規模拡大に大きく貢献しました。さらに、当時の大阪は綿紡績業を中心とする繊維産業や製糖業の発展による飛躍の段階にあったため、大阪支店でも繊維関係や砂糖の保管はもちろん、1924(大正13)年からは棉花荷捌きも開始するなど、倉庫業務から総合的な物流業務へと踏み出しました。

M&Aを通じて規模を拡大し、新業種の取り扱いノウハウを得ることや、物流のトレンドをつかんで拠点と業種に投資するという、現在の三井倉庫にもつながる社風は、この当時から脈々と受け継がれているのでした。

 

横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎

2015.5.28

 

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