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昭和25年 上場編

「戦争の被害を乗り越え、閉ざされた財閥企業から開かれた企業へ」

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<多くの犠牲を生んだ戦争> 

 1937(昭和17)年7月の盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争勃発から、1945(昭和20)年8月の第二次世界大戦終結までの間に、日本だけでも軍人・軍属230万人以上、民間人80万人以上、合計310万人以上にもおよぶ大きな犠牲が生まれました。民間人80万人以上の犠牲のうち、海外での犠牲者30万人以上、日本国内での犠牲者50万人以上とされ、日本国内での犠牲者の多くは空襲による被害とされています。
1945年3月9日深夜から10日にかけての東京大空襲により、死者約8万4,000人、全焼家屋約26万7,000戸の大きな被害があり、東京では終戦までに合計122回の空襲がありました。8月6日に投下された原子爆弾によって、広島では14万人以上が死亡し、建物の約90%が全焼または全壊しました。長崎でも8月9日に原子爆弾が投下され、死者7万4,000人以上、建物の約36%が全焼または全半壊しました。

 

<財閥解体と経済民主化>

 日本政府は1945年8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が占領政策を実行しました。GHQの最大の目標は日本の非軍事化であり、その手段として日本の民主化が推し進められました。民主化の五大改革として、「参政権を与えることによる女性の解放」、「労働者の団結権の保障」、「教育の民主化」、「秘密警察制度など、圧政的諸制度の撤廃」、「経済の民主化」が実施されます。
アメリカ政府は9月22日付で「初期の対日方針」を公表し、「日本国の商工業の大部分を支配してきた産業上および金融上の大コンビネーションの解体」によって、経済の民主化を実現しようとしました。この背景には、財閥(産業上および金融上の大コンビネーション)が日本の軍国主義を支えたという、アメリカ政府の認識があったのです。
11月24日には企業の解散や資産処分を大蔵大臣の認可制とする「会社の解散の制限等に関する勅令」、いわゆる制限会社令が公布され、1947(昭和22)年6月までに3,725社が制限会社の指定を受けました。この間、1946(昭和21)年8月に発足された持株会社整理委員会によって、財閥解体が推し進められました。1946年9月に第1次指定として三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社、富士産業の5社が指定され、1947年9月の第5次指定までに83社が指定を受け、各企業は次々と清算されました。

      

<三井倉庫における戦災と接収の影響>

 三井倉庫の所有する倉庫も戦災によって大きな被害を受け、さらに残された倉庫もGHQに接収されてしまったため、三井倉庫の再出発は苦難を余儀なくされました。たとえば東京支店の場合、所有倉庫の27.3%が戦災を被り、12.3%の倉庫がGHQに接収されてしまい、業務再開時には所有倉庫の約60%しか利用できませんでした。横浜支店の状況はより深刻で、戦災を免れたすべての倉庫がGHQに接収されてしまい、個人所有の倉庫や本町小学校講堂の一部を新たに借庫することで、1,719平方メートル(521坪)のスペースを確保するのがやっとでした。
倉庫業務だけでなく港運業務も戦時統制の影響を大きく受け、1942(昭和17)年末に設立された統制会社に吸収されていましたが、終戦により統制会社が解散され、船舶も返還されることになりました。しかし、三井倉庫が供出していた船舶のうち、艀船43.4%、曳船40.1%しか返還されず、返還された船舶には完全な船が1隻もありませんでした。船舶の修繕や備品の補充のために、1949(昭和24)年末までに3,140万円という、当時の資本金1,500万円と比べて莫大な費用を必要としました。

 

<株式公開により開かれた企業へ>

 

 三井本社が100%所有していた三井倉庫の全株式30万株は、財閥解体にともなって持株整理委員会に移され、1949年9月22日に公開入札されました。一方で、三井倉庫も多くの株式を所有しており、所有株式25銘柄11万4,311株を処分することで、ようやく制限会社の指定解除を受ける条件が整いました。12月27日に三井倉庫は大蔵省に「制限会社解除についての条件完備報告書」を提出し、翌1950(昭和25)年4月20日付で制限会社解除の大蔵省告示がなされました。
三井倉庫は4月21日に東京証券取引所に上場するにあたり、3月28日の臨時株主総会において、資本金を1,500万円(30万株)から1億2,000万円(240万株)に増資することを決定しました。この増資によって、増資前の株主数1,462名(1950年5月31日時点)から2,864名(同年9月30日時点)へと、株主数が倍増しました。

 三井倉庫の株主は、戦前は三井本社1社でしたが、戦後は持株会社整理員会による公開入札により1,462名に増加し、さらに株式上場直後の増資にともなって2,864名となりました。これは財閥という閉鎖的な資本関係から、株式市場を通じた開かれた資本関係へという、経済民主化の象徴とも言える変化です。また増資によって得た資金は、倉庫・事務所の本格的な修復、船舶・機械装置・車両・工具などの整備拡充に充てられました。1950(昭和25)年4月の東京証券取引所への株式上場は、経済民主化という面でも、戦災復興という面でも、大きな画期となる出来事だったのです。


 

 横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎

2015.9.30

 

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