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大正11年 名古屋編

歴史コラム 大正11年 名古屋編

発展する名古屋に、三井関係各社の力を集結して出張所設置


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<御三家筆頭の尾張徳川家の城下町、名古屋経済のダイナミズム>

 御三家と言えば、かつては芸能人、現在では有名私立中学校などを指すことが多い言葉ですが、もともとは江戸時代に「尾張徳川家」、「紀州徳川家」、「水戸徳川家」の3家を指していました。名古屋城に本拠を置く尾張徳川家は御三家の中でも筆頭で、名古屋も江戸、大坂、京都のいわゆる三都に次ぐ大都市でした。幕府の色が濃い名古屋ですが、1868(明治元)年に明治維新を迎えた際、尾張藩は新政府側であったため※1、名古屋は明治維新後に更なる発展を迎えます。

その発展の背景にあるのは、明治維新以前からの「土着派」、明治維新以後に名古屋近郊から移住してきた「近郊派」、明治維新後に尾張藩以外から移住してきた者や士族から商人に転じた「外様派」の3派の競争です。これらが中京地域の経済のダイナミズムを生んでいると、2度もテレビドラマ化された『官僚たちの夏』などの作品で知られる城山三郎著、『中京財界史』では指摘されています。

 

名古屋築港倉庫 大正11年頃


<織機の発明からトヨタの礎を築いた豊田佐吉と、三井物産>


「外様派」を代表する人物の一人が、豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)などを創業し、現在のトヨタ自動車の出発点となった豊田佐吉です。豊田佐吉は1867年に遠江国山口村(現在の静岡県湖西市)で生まれ、大工として修行しながら織機の研究を始め、早くも1890(明治23)年には豊田式木製人力織機を開発し、翌1891(明治24)年には特許を取得しています。豊田佐吉はさらに織機の改良を進め、1897(明治30)年には豊田式木製動力織機を製作し、この動力織機を製造販売する豊田商店を設立しました。

豊田式動力織機によって製造された綿布は、従来の人力織機で製造された綿布に比べて寸法の誤差が極めて小さく、三井物産名古屋支店は豊田佐吉の存在に注目しました。そこで1899(明治32)年に、豊田式動力織機の10年間の一手販売権(独占販売権)を三井物産が取得し、三井物産全額出資による豊田式動力織機の販売会社である、三井の井桁マークにちなんだ井桁商会が設立されました。

<名古屋港の開港と紡績業の急成長>

 

名古屋港の開港は1907(明治40)年と、1859(安政6)年の横浜、1868年の神戸から遅れること40年。もともと熱田神宮にちなんで熱田港と呼ばれていましたが、1907年10月に名古屋港と改称され、翌11月の開港により原材料の輸入や製品の輸出がよりスムーズにおこなわれるようになったため、名古屋周辺は一段と発展しました。

 
<棉花の需要に対応して名古屋出張所を開設>

豊田佐吉の製作した織機や名古屋港の開港が結びついて、名古屋周辺では紡績業が急激に発展を遂げました。1918(大正7)年に名古屋紡績、豊田紡織、菊井紡績、1919(大正8)年に協同紡績、中華紡績、内外紡績、1921(大正10)年には日清紡績が愛知県呼続豊田町(現在の名古屋豊田市南区)に大工場を建設し、合計錘数76万錘、棉花消費量年間50万梱 (約10トン)という旺盛な需要がありました。

そこで1922(大正11)年1月に開催された三井関係会社の新年会で、東神倉庫(現在の三井倉庫ホールディングス)東京支店の清崎昌雄は、東洋棉花(トーメンを経て現在の豊田通商)東京支店長の加藤莱作から、棉花が名古屋港に大量に荷揚げされるので、東神倉庫が名古屋港への進出するように勧められました。

三井物産名古屋支店の仲介により、東神倉庫は1922年3月に3,770坪(約12,500平方メートル)の土地を賃借しました。名古屋の土着派を代表する松坂屋を経営する伊藤家らが所有していた、熱田千年新田の一部と埋立二号地との地続きの土地です。

同年6月には倉庫4棟、上屋2棟の建設に着手するとともに、日本棉花同業会と棉花取扱契約を締結しています。同年11月1日に名古屋出張所は営業を開始し、1937(昭和12)年6月には名古屋支店に昇格しています。

 

東神倉庫が名古屋出張所を開設したのは、豊田佐吉による織機の発明や名古屋港の開港によって名古屋周辺で紡績業が急速に発展し、膨大な棉花の需要が誕生したからでした。さらに、三井物産と豊田佐吉との関係や、棉花貿易の見通しに関する東洋棉花の勧説など、三井関係各社の協力も見逃せません。

 

横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎

2015.7.15

 

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