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歴史コラム 大正2年 横浜編

関東大震災を乗り越えて支店昇格


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関東大震災後の様子 

 


毎年9月1日は「防災の日」です。1923(大正12)年9月1日に発生し、142,807名の尊い人命が失われた関東大震災を教訓に、災害の未然防止と被害軽減に役立てるため、1960(昭和35)年に防災の日は閣議決定されました。2015年現在、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から20年、2011年3月11日に発生した東日本大震災から4年、たびたび発生する大震災は人的・物的に甚大な被害を与える一方で、復旧・復興を通じて日本社会に新たな変化をもたらしてきました。

 

<昔は寒村だった!?横浜の大発展>

関東大震災で大きな被害を受けることになった横浜は、1859(安政6)年の開港前は100戸程度(人口約400人)の半農半漁の寒村でしたが、関東大震災前の1920(大正9)年には人口42万2938人の大都市に発展しました。横浜は主に欧米に対して開かれた窓口となり、1869(明治2)年には山手居留地46番で日本初のビール製造が「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」で行われ現在のキリンビールへとつながり、馬車道の「氷水屋」では日本初のアイスクリーム「ありすくりん(現在の貨幣価値で8000円)」が製造販売されるなど、欧米文化が日本に導入される拠点としての役割を横浜は果たしていました。

 

<関東大震災を乗り越え、生糸産業の拡大とともに成長>

三井倉庫(東神倉庫)が横浜に進出したのは1913(大正2)年、横浜税関構内に事務所を設け、税関第一号レンガ造瓦葺倉庫240坪を賃借して、当初は箱崎支店横浜派出として営業を開始しました。この横浜税関倉庫にも震災発生後に火の手が迫る中で、横浜派出長の西川政吉を中心に倉庫の施錠をした上で命からがら艀船に避難した結果、他の横浜税関倉庫が火災に見舞われる中で三井倉庫の借庫は類焼を免れました。横浜派出員の努力によって守った倉庫は震災後の横浜では貴重な存在であり、三井倉庫は横浜貿易復興会と連名で、震災直後の9月11日に税関倉庫を生糸専門倉庫として大蔵省から改めて借り入れることになりました。2棟3,600坪の倉庫の収容能力60,000梱に対し、1923(大正12)年末時点で52,000梱、金額にして7,000万円近くに達するなど活況を呈し、震災後の貿易の復興に大きく貢献しました。また、全国から救援物資や復興のための資材が送られてきましたが、それらを保管する倉庫のほとんどが罹災しているため、横浜では横浜税関と食糧局の了解を得て横浜新港構内に1,350坪の土地を借りて急設倉庫4棟を建設し、10月上旬には竣工しました。

こうした業務の飛躍的発展に対応するため、横浜派出を箱崎支店から分離して、震災から約2ヶ月後の11月3日には横浜支店へ昇格させました。地震とその後の火災によって横浜は一面の焼け野原となりましたが、震災からの復興の担い手として、三井倉庫の横浜の拠点は支店に昇格したのです。

 

横浜市立大学 准教授 山藤竜太郎

2015.4.24

 

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